世界遺産レベルの奇観・太魯閣渓谷

朝日新聞の名物コラム、天声人語を約2000回にわたって担当した栗田亘さんの連載エッセイ。世界各地を旅して感じた、歴史、風土、景色などに関する興味深い話題で構成。台湾周遊エッセイの1回目

台湾周遊 その1

台湾周遊その1渓谷写真.jpg▲太魯閣渓谷はこの近くに住む原住民タロコ族の名を漢字にあて日本統治下の1937年に国立公園にされた 渓谷沿いの見学路では落石に備えて貸し出しのヘルメットの着用が義務づけられている

 台湾。日本にとって、近くて遠く、遠くて近い国である。

 正式には、中華民国。

 1945年、アジア・太平洋戦争の敗戦まで台湾は半世紀もの間、日本の植民地だった。

 日本が連合国に降伏したあと、台湾は中華民国政府が支配し、日本と外交関係を結ぶ。しかし1972年、日本が北京を首都とする中華人民共和国(中国)と国交を回復すると、中華民国は日本と断交。現在、日本政府は中華民国を正式な国家として認めず、一方で民間の交流は年を追って盛んという、奇妙な状態が続いている。

 ここでは、だから中華民国ではなく、ボクらが日常使っている「台湾」という呼び名に倣いたい。

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 昨年暮れから新年にかけての1週間、ボクは鉄道とツアーバスに乗って台湾を一周してきた。

 成田から中華航空機で首都・台北へは4時間強。その9割は本州、九州、奄美、沖縄と日本の上空を飛ぶ。

 日本の最西端・与那国島と沖縄本島の距離は500キロ、ところが与那国島と台湾の間は100キロちょっとでしかないのだ。

 台北・桃園空港に着くと、ボクたちは台湾の鉄道の拠点、台北駅に向かった。ここを起点・終点とし、時計回りに台湾本島を一周する。ざっと1100キロの道のりである。

 台北駅は、正式には「台北車站」だ。「車」は「火車(汽車)」の車、「站」は宿場という意味。プラットホームは「月廊」。月を鑑賞する楼台にホームを見立てた。

 漢字を使っている国々のうち、本家の中国の新聞や雑誌で見かけるのは、日本人が見慣れた漢字ではなく、「簡体字」だ。

 中国では1964年、国が、漢字を簡略化した「簡体字」を定め、これを「正字」としてあらゆる場面で使うように指導してきた。

 韓国で一般に使われるのはハングルで、漢字はほとんど見かけない。ハングルは、朝鮮語を表現するための表音文字。1446年に李朝の国王が制定した。  日本では、ひらがなカタカナと漢字を組み合わせて使う。

 こうした中で台湾は、日本の旧漢字とほぼ同じ文字「繁体字」を使う。  たとえば「学校」の「学」は、台湾では「學」だ。教科書も新聞もポスターも、繁体字ばかり。「漢字大国」といってよい。

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 太平洋に面した東海岸を走る在来線の特急「自強号」で、ボクたちはまず花蓮をめざした。

 途中、宜蘭を通る。この付近で去年の10月21日、ボクらの列車と同じ自強号が脱線し鉄橋下に転落。ほぼ満員の乗客のうち18人が死亡、215人が負傷する大事故が起こった。時速80キロ以下で走るべきカーブを、時速140キロで運転したため、曲がりきれなかったとみられる。

 列車は定刻より15分遅れており、運転士は自動列車防護装置(ATP)を切っていたらしい。OB運転士の証言によると、遅れを取り戻すためにATPを切ることは黙認されていたという。日本でも同じような大事故があった(福知山線の脱線)ことを思い出す。

 車窓から、悠然たる太平洋と切り立った断崖を楽しむ。この路線の売りだ。

 旅の初日の宿泊地、花蓮は人口11万。東海岸では大きな都市である。統治時代に日本が港を築き、商業港として栄え、また日本からの移民を受けいれる玄関口となった。

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 2日目の朝、ボクらはツアーバスで花蓮郊外の太魯閣渓谷に出かけた。珊瑚礁が隆起して大理石の岩盤を生み、川の流れが長い長い年月をかけその岩盤を削って造りだした大渓谷だ。ここも統治時代の日本が観光地として見いだした。

 現地ガイドの后さんが「国連に入っていれば、もちろん世界遺産になりました」と言う。同感だ。中華人民共和国の反対で、中華民国は国連から弾かれている。

 二つの勢力の対立は、台湾の現代史(1945年以降)をかき回してきた。台湾では1949年から1987年まで戒厳令が布かれていた。1950年代から1960年代には共産主義に通じたと「あらぬ嫌疑」をかけられ多くの無辜の人々が殺された。台湾映画の名作『悲情城市』のあとの時代である。

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 ガイドの后さんは40代か。東京の私大に留学し、仲間と日本全国のマージャン荘を巡ったという愉快な男だ。ツアーバスが花蓮の郊外を走っているとき「あそこにナイトクラブがあります」とマイクをとって言った。コンクリート造りの高い建物で、窓はほとんどない。ナイトクラブとはとても思えない。

「台湾では納骨堂のことをナイトクラブと言います。あの中に遺骨がたくさん納められています」という説明で、あれがそうか、と思った。

 司馬遼太郎『街道を行く』シリーズの「台湾紀行」(1993年)に花蓮で、老婦人に「コンクリート造りの納骨塔」に案内される場面がある。〈内部の螺旋階段をとめどもなくのぼってゆくのである。途中、ご主人の遺骨もある。またのぼる。花蓮じゅうの亡き人に出会ったかの思いがしつつ登りつめ、息がきれた。そのあと、くだった。それだけだったが、なにやら尊げな思いがした〉

 ナイトクラブ云々は、司馬さんの文章にはない。后さんのブラックジョークかもしれない。

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 鉄道は海岸線から外れるので、海沿いの道を景色を楽しみつつ、台東方面へとツアーバスで走った。

 ここを北回帰線が通っている、という場所に着いた。

 海岸近く、コンクリートの白い高い塔に「北回帰線」と書かれ、近くに売店やトイレがある。

 ここを境に、亜熱帯から熱帯に入ると聞いて、連れ合いとかわるがわる塔の前で写真を撮った。塔が高すぎて、なかなか画面に入らない。

 亜熱帯ではコメは二毛作。熱帯になると三毛作になると、これも后さんの説明である。

 二毛作までは昔、学校で習ったような気がするが、三毛作とは想像を超える。台湾について、ほとんど何も知らないのだ。あらためて自覚した。

台湾周遊電車写真.jpg▲台東市の旧台東駅 鉄道路線の整備に伴って廃止された駅が鉄道公園になっている 止めてある古い車両の前で台湾の親子連れがポーズしていた

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