原住民族の歩みと日本統治時代の痕跡を見る

朝日新聞の名物コラム、天声人語を約2000回にわたって担当した栗田亘さんの連載エッセイ。世界各地を旅して感じた、歴史、風土、景色などに関する興味深い話題で構成。台湾周遊エッセイの2回目

台湾周遊 その2

9155760ebf729ce40ec42e841f7a420c07eafc6c.jpg▲舞台で踊り歌うブヌン族の男女 台湾語で内容が紹介され観客は笑ったりどよめいたりする 簡単な屋根の下の舞台と観客席のほか、民族料理を出す食堂や売店が設けられていた 観光は村の最大の収入源だ

 台湾周遊の旅の3日目、ボクらのツアーは東海岸・台東市郊外にあるブヌン族の集落を訪ねた。

 ここでは、若者たち(20代、10代を中心に、母親に抱かれた2歳か3歳の子供までを含む)が民族衣装で輪になって踊りながら、祭りの歌、農耕の歌などを披露する。

 合唱といえば二部合唱とか三部合唱あたりがふつうだと思うが、彼らは独特の音階で八部合唱をこなす。男女の声が、離れ集まり、また離れ、感動を呼ぶ。それが売りもので、観光客に人気。観客席は満員だった。

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 16世紀前半までの台湾島には、ハワイなど太平洋の島々の先住民族と同じオーストロネシア族に属する複数の民族集団が暮らしていた。彼らは、現在の台湾では「原住民」として生きている。  ボクのパソコンで原住民という言葉を打つと、「不快用語」と、赤い注意表示が出る。しかし台湾では、原住民自身が「原住民」「原住民族」と名乗っており、その呼び方が憲法にも記され、定着している。

 原住民人口は50万ほど。16の民族が居るとされる。アミ族(最も多く約18万人)、タイヤル族(約8万人)、パイワン族(約8万人)、ブヌン族、プユマ族、ルカイ族、タコロ族、ヤミ族......などで、それぞれ独自の文化を持ち、言語はさらに細かく分かれている。

 遠い昔、原住民だけが台湾に居た時代、彼らは異なった部族とは交流せず、ひとまとまりで統治する政権とか王朝は存在しなかった。

 1593年、豊臣秀吉は台湾を入貢(にゅうこう、貢ぎ物をもって来させる)させようと使者を送ったが、肝心の書簡を渡す相手が見つからず、沙汰やみになったという。

 書簡を渡す相手、つまり統一政権が存在していないならばと、この時代あたりから外来者が台湾を占有するべく、狙い始める。

 16~17世紀、大陸からは明王朝の兵とともに漢民族が入り込んだ。スペインも台湾東部・北部を占拠した。1622年、オランダが侵攻、1624年には明軍を撃ち破り、台南に拠点を設けた。  こうした外来者によって、原住民たちは虐げられていく。

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「生蕃(せいばん)」という耳慣れない言葉を、ボクは中学生の頃に知った。佐藤紅緑の少年小説『ああ玉杯に花うけて』に出てくる、乱暴な中学生のあだ名だった。

 佐藤紅緑は作家佐藤愛子、詩人サトウハチローの父親。この作品は遥か昔、1927(昭和2)年から翌年にかけて雑誌「少年倶楽部」に連載され、大絶賛。単行本もベストセラーとなった。

 ボクが読んだのは昭和30年代に復刊されたとき(それも遥か昔だが)。生蕃とは獰猛な野蛮人みたいなものだろうなあ、と想像した。

 あらためて生蕃を「広辞苑」で引いてみる。〈教化に服さない異民族。台湾の先住民である高山族(高砂〈たかさご〉族)中、漢族に同化しなかった者を、清朝は 蕃(じゅくばん)と区別してこう呼んだ〉。なるほど、少年時代の想像は、半分くらいは当たっていたわけだ(熟蕃とは〈高山族中、平地に住み漢族に同化したもの〉=広辞苑)。 『ああ玉杯...』が書かれたのは、日本が台湾を植民地化してから30年ほど経った頃。清国命名の生蕃という言葉が、日本本土でもふつうに使われるようになっていたのだろう。

 台湾統治はようやく軌道に乗り始めていたが、それでも霧社(むしゃ)事件(1930年)など先住民の大規模な抗日暴動が起こり、日本の官憲による過酷な弾圧が加えられ、多くの命が奪われていた。

 日本(台湾総督府)の施策は、台湾の近代化を推進した一方で、経済的収奪を伴っていた。植民地統治とは、本質的に民族のプライドを傷つけるものなのだ。

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 台東市郊外の鹿野郷地区を訪ねた。植民地時代に日本が造った小学校跡と、当時の小学校長の宿舎、復元された神社などがある。

 広い通りに沿って、ポツポツと住宅が並ぶ。のどかな田園だ。広い敷地に鉄筋2階建ての「台東縣鹿野郷 龍田國民小學」があった。ここが統治時代の小学校跡地という。

 小学校の隣に、当時は託児所だった建物が、空き家のまま残されている。この地域で初めてできた託児所だったと聞かされた。

台湾周遊その2.jpg▲可能な限り復元に努めたという「鹿野神社」 統治時代は婚礼の場として活用された 村民が出征するときは盛大な歓送式の場となったと案内板に紹介されていた 当時はこの近隣でサトウキビが栽培されていた

 さらに隣が、小学校長の宿舎だ。かなり傷んだ木造平屋の建物の前に〈日式校長宿舎〉と案内板がある。日式は、和風という意味か。難しい漢字が並んでいるが、おおよその内容はわかる。〈もともとは鹿野庄(現在の鹿野郷)役場の庄長の官舎だった。創建年代不詳。屋根は両流れの木造建築。戦後は龍田國小が管理し、校長の宿舎とした。ここは鹿野郷龍田村にわずか6棟しか残っていない旧日本統治時代の建物のひとつである〉  さらに数分歩くと、道教の寺に出た。境内を奥へ進む。そこに、小ぶりな鳥居と、その向こうに白木造りの神社拝殿があった。

 やはり案内板がある。〈1910年から台湾総督府は台東一帯で大規模な日本からの移民政策を始めた。鹿野移民村(現在の鹿野郷龍田村)はそのひとつ。台東製糖株式会社が300人、100戸を募集した。移民村区画には神社も設けた〉  その「鹿野神社」については、別の案内板が詳しい。〈1923(大正12)年7月に鎮座(ちんざ)。1931(昭和6)年11月、現在の場所に遷座(せんざ)。日本國家神道系統の開拓三神を供奉(くほう)した〉。移民村の歴史を残し、観光の役にも立てるため、日本の宮大工の指導のもと、原形を模した建物を造り、2015年10月に落成したという。

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 拝殿の前でボクは、行きがかり上簡単に拝礼した。  旅に備えて急いで勉強したばかりの、日本統治の歴史のあれこれがアタマを過(よ)ぎる。何やら複雑な心境である。

 現役の新聞記者だった昔、記事に〈複雑な心境〉と書いてデスクに「読者に説明できないような表現をするな」と叱られたのを思い出す。

 拝みながら、しかし「複雑な心境としか表現できないことってあるよな」と言いたくなった。

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