伝説の超特急、あじあ号復活までのエピソード

伝説の超特急ぐあじあ号、復活までのエピソード

あじあ号が復活するまでの困難と情熱

あじあ号」動態保存の意義差し替え [更新済み].png

▲イラスト 那須盛之

「超特急あじあ号」といわれてわかる読者が、どれだけいるだろうか。ボクは、流線型蒸気機関車に引かれて、大平原を驀進(ばくしん)する満鉄「あじあ号」の写真と記事とを、雑誌『少年倶楽部』でむさぼり読んだ記憶がある。

 あじあ号の開業は一九三四年。中国北東部が旧満州国時代の大連〜新京(いまの長春)間、七百㌔を八時間半で走った。くしくもこの年は、東海道本線の特急「つばめ」が、神戸〜東京間六百㌔足らずを、八時間半で走れるようになった年でもある。

 あじあ号の機関車は、重量二百㌧、動輪は直径二㍍。当時、東洋で最高速度の百三十㌔を出した。日本技術陣の作品だった。あじあ号の消息は、日本の敗戦から三十五年間ぷっつり途絶えた。その足どりを探り当てたのは、竹島紀元(としもと)さんを団長とする鉄道関係者の訪中団だった。

 竹島さんは、月刊誌『鉄道ジャーナル』を発行する出版社の社長だ。竹島さんは二〇〇〇年、『鉄道に魅せられて』という初めての著書を出版した。続いて〇一年二月下旬に『鉄道映像作品集』をまとめた。

 ボクはこの二冊で、あじあ号の現在をやっと知ることができた。映像作品集には、記事に加えて、あじあ号の写真がカラーを含め二十四枚収められている。

 竹島さんは敗戦後、旧制熊本高校在学中、蒸気機関車の写真を撮りに、近くの国鉄機関区に通いつめた。機関車添乗実習を認められ、機関車の運転が許された。鉄道と竹島さんのつきあいは、こうして始まる。鉄道関係の取材、執筆を続けながら鉄道記録映画社を立ち上げ、その会社が鉄道ジャーナル社になる。

 一九七九年、中国側から「廃車になった蒸気機関車を日本に贈ろう」という申し出が竹島さんのところにきた。日本側は、「あじあ号が残っていればほしい」と申し入れた。色よい返事はこなかったが、翌年夏、竹島さんを団長とする訪中団が出発。一行は、瀋陽(旧奉天)で、思いがけないニュースを聞く。近くの蘇家屯(そかとん)機関区に、あじあ号があるというのだ。

 その機関区の奥に、巨大な鉄のかたまりがあった。特徴のある流線型の外被をはがされ、スクラップ寸前の変わり果てたあじあ号の機関車だった。竹島さんたちは、動態保存できないか、という思いを中国側に伝えた。中国は、まず外観だけの復元にかかる。八一年五月に完成。

 八二年には日中鉄道交流協会が生まれる。このころから日本側は中国に遠慮して「あじあ号」と呼ぶのをやめ、正式名の「パシフィック7形」の略称「パシナ」と呼ぶことにした。関係者は、なぜかナの字をひとまわり小さく書く。ナは7のナだ。

 中国はこの機関車を「SL7形」と呼んできた。SLといってもスチームロコモーティブのSLではない。中国の旅客列車用機関車を表す「勝利形(ShengLi)」という言葉の略だ。

 一九八四年秋、中国側の努力で、パシナはついに走った。車体の色も、あじあ号時代と同じライトブルーがよみがえった。

 竹島さんは書いている。「パシナは豪快な汽笛を鳴らし、両側のシリンダーから白い蒸気を噴射して、力強く動き始めた。人間の背よりもずっと大きな動輪をたくましく回転させて、流線型の巨体がゆっくりと眼前を通り過ぎていく」。

 翌年には本格的な修繕、整備をして、大連〜瀋陽間で客を乗せる計画が、中国と日中鉄道交流協会の手で進んだ。応募した旧満州在住者ら二百人が、海路を大連に向かう。一行は船上でパシナの本格走行は「性能と安全の面で不可能」という通知を中国側から受ける。

「とにかく動く姿さえ見られればいい」と、二百人は瀋陽に向かう。中には八十歳を超える人や、元満鉄の機関士もいた。

 一行は、瀋陽蒸気機関車陳列館構内の三百㍍の区間を、パシナが引く古い満鉄の客車に乗ってゆっくり往復した。 「本線を疾駆する夢はかなわなかったが、宿題だった生きたパシナとの対面が、ついに実現した」と竹島さんは書く。

 ところで、日本の国鉄が蒸気機関車を全廃したのは一九七五年。その三年後には、山口線でスリムなC57型機関車によるSL運行が復活した。当時の国鉄総裁、高木文雄さんは、復活の理由をこう話してくれた。

「蒸気機関は、人類史に新時代を画した重要な文明です。それを次の世代のために、博物館の中ではなく。動く姿で伝えていく責任が、われわれにはあるのです」

 竹島さんたちが、あじあ号の動態保存を考えて努力した気持ちに通じるものがあると思う。

 名コラムニスト、岡並木さんのアンコール・エッセイでした。 (2001年4月10日号原文掲載)

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