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「ガンバレNISSAN!!」発掘名車:Z-CARが海外で大ヒットした理由

Writer:カー・アンド・ドライバー編集部 Photo:横田康志朗

1975年式 日産フェアレディZ-L

DSC_3733.JPG1975年式日産フェアレディZ-L 196911月にデビューした1stフェアレディZは日産車のイメージリーダーとして誕生 米国日産の片山豊社長(当時)の進言で開発がスタートしスポーツカーを快適なGTへと変貌させた

新たにスポーツカーを定義した傑作

 1stフェアレディZ(S30型)は、「世界への飛翔」を念頭に開発されたスポーツカーである。Zの「生みの親」は、当時、米国日産の社長だった片山豊(通称ミスターK)氏。片山社長は米国での日産車(当時のブランド名はダットサン)の販売には「強力なイメージリーダーが必要」と本社に進言。オープン2シーターのスパルタンなフェアレディ(SP/SR型)のモデルチェンジを働きかける。

 片山社長がイメージした新型車は、洗練されたスタイリングと、乗り味を持つ、手ごろな価格のスポーツカーだった。1960年代後半の米国日産は、4輪独立サスペンションや高性能OHCエンジンを搭載した3rdブルーバード(510型)が、順調に販売台数を伸ばしていた。この好調を後押しし、しっかりしたブランドイメージを構築するために新型スポーツカーが必要と判断したのである。米国はスポーツカー需要が旺盛で、SP/SR型フェアレディの約90%は米国に輸出されていた。

 片山社長の提案を受けた日産本社は、新型スポーツの開発に取り組み、196911月に1stフェアレディZを発表する。""の名称は日産社内の開発コードネームだった。

 Zの最大の美点は、流麗なスタイリング。長く伸びたノーズ、そしてリアをスパッと断ち切る当時流行のコーダトロンカ処理を施したリアエンドが絶妙なバランスで構成されていた。さらに、彫りの深いヘッドランプ回りがシャープな印象を与えた。Zは完璧なスポーツカールックだった。また、大型リアゲートの採用で、実用性にも優れていた。

DSC_3753.JPGフェアレディZは日本以上に米国で人気を集め総生産台数約55万台のうち約47万台が輸出された ロングノーズスタイリングは日産造形課に在籍していた松尾良彦氏の作品

人気爆発。価格はポルシェの約3分の1

 コストパフォーマンスは驚異的に高かった。Zはメカニカルコンポーネントの多くを、ほかの量産車から流用し、巧みに価格の抑制を図っていた。主力エンジンにはセドリックをはじめ、当時多くの上級モデルに搭載していたL型の直列6気筒を採用。フロントのストラット式サスペンションとラック&ピニオン式ステアリングはローレル用、ブレーキ回りはスカイラインGT用を利用していた。

 日本仕様は1988ccのL20型直列6気筒OHC130ps)を搭載したZ(デビュー時93万円)と、上級仕様のZ-L(同108万円)、そしてスカイラインGT―Rと共通のS20型直列6気筒DOHC24V(160ps)を積むZ432185万円)の3グレード。

 アメリカ輸出仕様は2393ccのL24型直列6気筒OHC(150ps)を積み、240Z(3526ドル)を名乗った。Z432だけは、特殊なエンジンを採用していたため高価だったが、そのほかのモデルは、ライバルと比較して圧倒的に安価だった。とくにアメリカ仕様の240Zは、性能面でほぼ互角のポルシェ911の2分の1から3分の1の価格設定で、Zの魅力は際立っていた。

 Zは日本でも人気は高かったが、米国ではさらに圧倒的な支持を集め、大成功を収めた。2ndモデルにバトンタッチする1978年8月までの総生産台数約55万台のうち、47万台もが米国に渡った。

DSC_3885.JPG室内は高級GTカーのイメージ Z-Lはウッド調ステアリングを採用 中央の3連補助メーターはZの伝統 Z-Lはストップウオッチ付き

DSC_3960.JPG速度計と回転計は深いフードの奧に配置する無反射タイプ 速度計は240kmhまで表示

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