メルセデス・ベンツ物語 その2

ベルタ・ベンツは1888年8月、マンハイムの自宅を夫カールが作った「パテント・モートル・ワーゲン」に乗って、生まれ故郷のプフォルツハイムに向かった。内燃機関を搭載した自動車による初のロングドライブだった。燃料の給油や上り坂への対応、ブレーキの故障などに苦労しながらも約190kmにおよぶロングドライブに成功。自動車が生活に資する性能を持つことを証明したのだった。

ベルタのドライブは190kmを無事に踏破した

ベルタとベンツ.jpg▲1894年ベンツ・ヴィクトリアに乗るカールとベルタ ヴィクトリアにはヘッドランプ側に座席を設定して向かい合わせに座れる仕様もあった

 クルマは途中で何度も止まったし、坂道では人手を借りて押し上げてもらわなければ上りきれなかった。

 燃料が切れて、当時まだ「珍しい、高価なガソリン」を、ガソリンスタンドならぬ薬局で買わなければならなかった。しかもビン詰めで。

 ベルタたちが購入した「ガソリン」は、リグロイン(引火性のある炭化水素)だった。ちなみに、最初に「給油」したヴィースロッホの薬局は、世界初のガソリンスタンドとして後に有名になった。

薬屋で給油.jpg▲ベルタはガソリン(炭化水素)を薬局(アポテーケ)で購入 ベルタが購入した薬局は"世界初のガソリンスタンド"になった

 ベルタら3人は早朝にマンハイムの自宅を出発し、その日のうちに約100kmを走ってプフォルツハイムに到着した。この街はかつてカール・ベンツが勤めていた場所であり、ベルタが生まれた街だ。

 帰途は同じ道を通らずに、ブレッテンからホッケンハイムを回り、マンハイムに帰り着いた。全体で約180kmのドライブだった。

地図.jpg▲ベルタがドライブしたルート マンハイムを出発した往路はオレンジ色 ベルタの故郷プフォルツハイムからの袋はグリーン色のルートを走行(地図をクリックすると大画面表示になります)

 故障の多い新車を操ってのことだから、それは女性や子どもにとっては、さぞかし困難をきわめたドライブだったろう。しかし、彼らは世界で初めての長距離走行の記録を打ちたてたのだ。

 カールが世界初の女性ドライバー、ベルタを叱ったか、あるいはほめたかは知らない。

 ただ、家族のドライブ行からヒントを得て、このモニュメンタルな出来事のあと間もなく、低速ギアを考案してヒル・クライムの技術を採り入れ、その後のベンツ製自動車のすべてに組み込むことを忘れなかった。 坂道に強いベンツのルーツがここにある。

未来を夢見るエンジニア

 カール・ベンツは1844年11月25日、南ドイツのカールスルーエに近いミュードルフという町に生まれた。

 少年時代のカールは、付近の岩石から採掘される赤みがかった敷石で舗装された道を駆ける馬の蹄(ひずめ)の音を聞きながら育った。鍛冶(かじ)技術者だった父親ヨハン・ゲォルグ・ベンツは、息子カールが2歳のとき肺炎で死んだから、彼は母親ジョセフィーネの手ひとつで育てられた。

丸ベンツ.jpg▲若かき日のベルタ

 この母親はいまでいうと「肝っ玉母さん」だったらしい。苦しい家計の中から、息子をカールスルーエ・ポリテクニウムという職業学校に通わせて数学と機械工学を学ばせている。 「カール・ベンツは蒸気機関を発明した偉人、ジョージ・スティーブンソンに比べられる。すなわち、彼はガソリン自動車を発明したからである。しかも、この2人のパイオニアに共通した点は、生まれつきエンジニアの才能にめぐまれながら、貧しく、厳しい環境の中で育ったことである」と、伝記作者は書いている。

 カールの母親はまことに勇気に満ち、決断に強く、そして頑固だった。そうした性格はそっくり息子に引きつがれ、カール・ベンツは後世、一徹者として批評されるようになる。

 カール・ベンツがまだハイティーンだったころ、世界の自動車界も「夜明け前」だった。1860年ごろの事情を年表で見ると、ドイツばかりでなく、フランスでもイギリスでも似たりよったりの技術革新の時代で、カール・ベンツのような未来を夢見るエンジニアがどこの国にも生まれはじめていた。  

  1859年、エティエンヌ・ルノアールはパリにガスエンジン開発の会社設立。
  1862年、ルノアールは自分の発明によるガスエンジンを
      「馬なし馬車」に取り付けて走らせようとして失敗。
  同年、フランス人技師アルフォンス・ボー・デュ・ロシャは
     4サイクルエンジンを理論的に証明。
  1868年、オーストリア人ジーグフリード・マルクスは4サイクルエンジンを製作、
      4輪車の完成を目指す。

 カール・ベンツも負けていなかった。といっても、各国の技術革新の情報が、それぞれの研究者に伝えられたわけではなく、現代のボクたちがいま整理された記録から、カールの立場を推測する。しかし、当時のヨーロッパに押しよせた産業革命の波が、うつぼつとして青年技術者の胸中に何か共通した使命感を燃えあがらせ、人類の進歩のためという目標へ彼らを駆り立てたのである。

 カール・ベンツは20歳になる。商業の町マンハイムに一時期仕事を見つけるが志を得ないで転職、プフォルツハイムに出向いてベンキーザー兄弟会社に移る。この会社は鉄工所として大きく、彼はここで機械工学の基礎をみっちりと学ぶ。蒸気エンジンとガスエンジンとの結合を考案したり、定置型動力機関や小型電動機を開発して、少しずつ青年技術家としての地歩を築いていく。カールの仕事熱心は、男まさりの「肝っ玉母さん」の指導によるところが多かったが、やはり父親からの技術魂が心の底に生きていたのであろう。

 25歳になったカールは、彼の人生ではじめての、手痛いカウンター・ブロウを一発食う。「勇敢な母親」と呼ばれた肝っ玉母さん、ジョセフィーネ・ベンツが死んだのである。彼は孤独を味わう。心の支えを失って泣く。その時代の彼に手にさしのべたのが、あとでカールの妻となるベルタ・リンガーだった。

 ベルタの父親リンガーは知られた建設業者で、娘の頼みを聞き入れて、新しい仕事を目論(もくろ)む若いカールのために出資者のひとりにもなるのだった。

 鍛冶屋の息子が建設業者の娘と恋愛し、その娘がおてんばで美人だとなると、これは微笑ましくも開拓時代のアメリカ西部劇映画のひとコマを連想させるではないか。(続く)

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