ポルシェ父子物語 第3回「ポルシェ博士は戦犯として収容所生活を送る。息子フェリーの愛情」

ポルシェ博士は戦犯として収容所生活を送る。息子フェリーの愛情

 ほんとうに「禍福はあざなえる縄のごとし」だ。ドイツが敗北し、やがて第2次大戦が終わったときからポルシェ一家を不幸が見舞う。没落した成功者には、伝記作家の筆も冷たい。

「フェルディナント・ポルシェ博士。第2次大戦でナチスに協力、戦後は戦犯として、フランスはディジョンの収容所で幽囚の日を送る。ときに71歳」。

 息子フェリーにも同じく冷淡だ。

「フェリー・ポルシェ。ポルシェ博士の息子。実力のある若手技術者だが、同じく戦犯として父親とともに捕らえられた。36歳」

 2年間ほどではあったが、ポルシェ父子はヒトラーの甘言を信じたばかりに、手痛いアッパー・カットを食った。それまでの恵まれた生活とは裏腹に、収容所の毎日が悲惨で厳しいものだったことは想像に難くない。いろいろな報告や手記が残されているが、不幸が彼らを見舞うのだ。それは70歳を超えた老ポルシェ博士にとっては、厳しく、つらい時期のはじまりだった。とくに〝コラボー(対独協力者)たちにとって〟というただし書きさえついている本もある。

P02_0975_a4.jpg▲フェルディナントとK・ラーベ(写真右) ラーベはポルシェ博士が会社を興したときからデザイナーとして協力していた

「カール・ラーベ(ポルシェの協力者)や技師たちはグミュントにいたが、鉄道すら走っていなかった。設計室は牧羊が飼われている小屋につづく物置き小屋だった。博士と息子は湖に近い小屋に隔離されていたが、グミュントとその間には境界線があり、敗戦国のドイツ国籍を持つポルシェ博士は、その境界線を越えてグミュントに入ることはできなかった」と記されている。

 ボヘミアンがドイツ人になったばかりに、不幸だったのだ。もうこれ以上の引用はやめよう。とにかく不運だったのだ。彼らが生粋のドイツ人でないだけに、加担者に対しての憎しみと憐れみの間を右往左往しなければならなかった――アメリカ軍は別として、イギリス軍とフランス軍からはこづかれたのである。

S11_0155_fine.jpg▲ヴァンデラー・タイプ7(1931年) ポルシェ設計事務所が手がけたモデル

 ポルシェ父子は、それにしてもお互い気が合ったらしい。ポルシェ博士はこよなく息子を愛した。娘がいたが一人息子だったこともあろう。しかし溺愛ではなかったし、息子も父親をよく理解した。

「フェリー・ポルシェは1909年9月19日に生まれた。10歳のクリスマスにはじめて「本物」のクルマをプレゼントされた。父親が運転の仕方を教えてやろうと口を切るよりも早く、少年はクラッチをうまく操作して広場を走ってみせた。驚いた父親は、いったい誰に習ったのだね、とやさしくたずねる。かわいいものだ、足がまだ十分に強くないために座ったままではクラッチが踏みこめないので、立ったままクラッチを踏んでギア・チェンジをするのだった」

P02_0978_a4.jpg▲トイカーを運転するフェリー・ポルシェ(1921年) おもちゃといっても2気筒エンジンを搭載していた

 伝記作家も父親と一緒に微笑んでいる。当時のクラッチはよほど重かったのかもしれない。

「14歳ごろになると、フェリー少年は軽2輪を乗りこなし、16歳のときには、それは第1次大戦後の1925年だったが、父親とともに、テスト・ドライブにも同行した。以来、大抵の実験やテスト・ドライブに一緒に出かけ、ときには父親は息子に運転を任せ、自分は傍らに座って、どうだいとウインクしてみせたりした。父親は16歳の少年を暗黙のうちに認めていたのであった」

 寒い冬の日の服装は、いかめしいものだったらしい。そのころの『ヴォーグ』誌に、クルマに乗せる子供のファッションが出ているが、毛皮に身を包んでいる。

 ポルシェ博士の設計事務所がシュツットガルト・クローネン14番街に作られたころは、フェリーもいっぱしの設計家になり、また一方で有能なテスト・ドライバーとして父親の事務所で働いた。とくに2リッター・ヴァンデラー(ポルシェ設計事務所の記念すべき第1作)の作業では他の技師たちに引けをとらなかった。

P12_0374_a4 2.jpg▲ポルシェ・タイプ360チシタリア(1947年) 1.5リッター・V12エンジン+スーパーチャージャーをミッドシップに搭載する4WDマシン チシタリアはイタリアのピエロ・ドゥシオが興した企業 フェリー・ポルシェの他にアバルト社を興したカルロ・アバルトもこのクルマの開発に関与していた

 こうして結ばれた父子の愛情は、第2次大戦後、二人ともども戦犯で収容所送りの悲運に見舞われたときに、最も強くはたらく。ひと足さきにフランス軍の監視から解放されたフェリーは、バーデン・バーデン、パリ、そしてフランスのディジョンという具合に、連合国側の軍や自動車産業の都合で移送される父親を救出しようと、最大の努力を試みる。

 ルノー4CVの生産に、ポルシェ博士がむりやり協力させられたあと、フェリーはイタリアのピエロ・ドゥシオが興したチシタリア社のためにスポーツカーを製作。その売上金をフランス側に保釈金として支払う。やっと父親と、姉ルイーゼの夫ピエヒ博士を取り戻すことができたのだった。

P02_0967_a4.jpg▲6歳のフェリーと11歳の姉ルイーゼ ルイーゼの息子がピエヒ元VW会長

 ドイツ降伏2年後の1947年8月5日、老ポルシェ博士は自由の身となり、一家はオーストリアの静かな村グミュントに帰って来る。

 ポルシェ設計事務所は1944年の秋、連合国軍の攻撃と爆撃が激しくなったころに、爆撃を避けるためにウォルフスブルクからグミュントに避難していた。みんな帰って来た、ポルシェ・ファミリーの皆が......。

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ポルシェ父子物語
第1回「チェコ出身の技術者は、ドイツの国民車構想に夢と希望を託した」
第2回「1934年、フォルクスワーゲン計画発表、国民車開発がスタート」
第3回「ポルシェ博士は戦犯として収容所生活を送る。息子フェリーの愛情」
第4回「第2次大戦後、ついに博士の悲願だった国民車の生産がスタートする」

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