ルイ・ルノー物語 第1回「若き天才は19歳のときに自動車作りに着手した」

若き天才は19歳のときに自動車作りに着手した

Small-13529-TypeA-1898_02.jpg▲ルイ・ルノーが最初の自動車を完成させたのは1898年のクリスマスだった 数名の仲間を集めて自作の自動車を披露している 友人たちからの評判はよくルイはお披露目の2カ月後には自動車会社を興した 写真は1899年 写真のタイプAはルノー初の自動車(1898年)

 ルノーは1898年にルノー兄弟によって創立され、フランスを代表するメーカーであるばかりか、ヨーロッパでも最大の自動車産業のひとつであり、「第2次大戦後に国有化」されたという点にはちょっと引っかかったものの、ボクは、ルノーの歴史の中で、創立者ルイ・ルノーの栄光が、ずっと長く引き継がれてきたものとばかり思いこんでいた。


 しかし、記録には悲しい記述がある。「1944年夏、8月25日のパリ解放後、ルイ・ルノーは、ドイツ占領軍に協力した罪によって投獄され、10月24日死亡。愛する土地エルケビイユに埋葬されて永眠した」と。とすると、ルイ・ルノーの栄光は第2次大戦で終わり、その後のルノーの大躍進は、他の後継者によって成し遂げられなければならなかった。


 いま(1980年当時)、いくつかのルノー社の歴史を読み、第2次大戦をはさんでルノーに悲しい断絶のあることを知ったボクは、ルノーの記録でも、1944年以前と、それ以後との違いをはっきりと悟った。

43f579e4b5_02.jpg▲1890年のタイプB ルノー最初のセダン シンプルかつ革新性を持ったクルマ作りがルイ・ルノーの信条だった
 ある年代記作者は書く。「75年間にわたるルノーの歴史には3人の男が大きくかかわっている。まず船のともづなを解いた最もオリジナルな発明家、ついで破滅からルノーを立て直しビランクール(ルノーの工場のある所)を所狭しとばかりに復興した男、そして3人目は、世界を制覇し、栄光に満ちたマネジメントを成し遂げた男」とある。3人の男とは、ルイ・ルノー、ピェール・ルフォショー、そしてピェール・ドレフュスのことだ。ただここでひと言だけ触れておかなければならない点がある。それは現代におけるルノーの栄光が、おおよそ3つの世代にまたがって説明されなければならないということだ。

タイプBのポスター_02.jpg▲1899年のタイプBの広告ポスター 最上段に「世界初」と大きくアピール イラストの下には「誰もが手の届く自動車」と表示 屋根付きで「悪天候でも大丈夫」とセダンの特徴を説明している
 つまり、第2次大戦までのルノー社を代表していたルイ・ルノー亡きあと、ドイツ軍の爆撃で工場の大半を焼失したビランクールを、ド・ゴール大統領の国営政策を受け入れながら立て直していった男、それがピェール・ルフォショーだったのだ。彼の努力によって、世界的に知られるようになったルノー4CVという大衆小型車が生み出されたのであった。

A11.jpg▲ブローニュにあったルノーのビランクール工場
 しかし、ルフォショーは自身で作った小型車を運転しながら、濃霧の中で障害物に激突してクラッシュ、死んでしまう。そして、第3のルノー時代を担った男、ピェール・ドレフュスが登場してくるわけだ。1955年3月、彼は全ルノーを代表して総裁に就任した。


 ルノーのクルマを語るとき、とくに、ルノー社の発展を語るときには後の2人を省いてしまうのは不十分のそしりを免れない。だが、ルイの死が余りにも悲劇的なだけに、これまで紹介されなかった部分を記してみたい。


 ルイ・ルノーは1877年、パリの裕福な服地商の息子として生まれ、そのままであればフランス・ブルジョアジーの中堅メンバーで平和に生涯を終えたかもしれない。しかし、マシンに対する異常なまでの情熱は人と違っていた。「油やグリースにまみれているときが無上に幸福のときであり、鍛冶場の炎や煙が夢であり、ハンマーの響きが耳に快い音楽だった」と。


 11歳のとき、家中に電灯をともしたという。ベッドの中からバッテリーの亜鉛板を出し入れする装置を作って得意になっていた。12歳のとき、パリ=ルーアン急行列車の機関車に積まれた石炭の山にかくれてスチーム・エンジンの動きをじっと見つめるような少年だった。


 13歳のころ、レオン・セルポレット(フランスの実業家、1889年のプジョーの蒸気3輪自動車を設計した)に惹かれて蒸気自動車の甘いスピードの味も試している。14歳になるや、父親を口説きおとして中古のパナール・エンジンを買いこんで、ビランクールの小屋にこもりきりになる。19歳のときにデラニー・ベルビューの製図技師として働き始め、自分用の自動車作りにも着手した。


 そんな彼は、1935年、自動車工業に捧げた功労によってレジオン・ド・ヌール勲章を受けた。当時、受賞者はフランス中でわずか15人という限りなく高い名誉の受賞だった。


 まことにフランス人の中の「選ばれたフランス人」といっていい男なのに、あまりにも戦争に介入しすぎて、対独協力者になり果てたのは痛ましいという以外にない。(続く)

まみやたつお/東京外国語大学卒業。1942年、朝日新聞社入社。1980年代に本誌で「栄光へのチャレンジャーたち」を連載。著書は『名車たちの青春群像』(ダイヤモンド社)など多数

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