ルイ・ルノー物語 第3回「ド・ゴールによる国有化後もオリジナリティ高いモデルを開発」

ド・ゴールによる国有化後もオリジナリティ高いモデルを開発

 別の本では、ルイ・ルノーはこうほめたたえられている。「1898年、フランス人ルイ・ルノー(父親は自分のボタン工場で働かせたかった)は、自分の工場を建て、はじめての自動車を自作した。それは、まことに傑出したマシンで、軽く、運転しやすく、『ダイレクトドライブ』を装備していたから、エンジンは直接にプロペラシャフトと直結していた。今日、ルノーはヨーロッパにおける偉大な自動車メーカーのひとつである」と。  当時の自動車メーカーは、一方ではスピードレーサーでもあった。1899年8月、ルイは自分の小型車でパリ〜トルヴィーユ間168kmレースに参加、平均時速39kmで、1着とタイ記録となる。

タイプC_パリ〜トルヴィーユ優勝.jpg▲1899年8月に開催されたパリ〜トルヴィーユ間レースに優勝した 自動車レースは沿道を埋める観客を熱狂させた
 ルイは6人兄弟の男4人のうちの末弟だった。父親は1891年に死んだ。長男ジョルジュと娘二人も若くして亡くなり、次兄フェルナン、三男マルセル、そしてルイの3人が残され、やがて3人でルノー兄弟会社をつくるのだ。仲よしの3人兄弟だったが、クルマに関してはルイが群を抜いていた。ルイが自ら設計したという設計図も残されている。


 そのころは、自動車レースの花形は都市間レースで、1901年のパリ〜ベルリン間レース、02年のパリ〜ウィーン間はチロル山越えで全行程1700kmという長丁場だった。

タイプD パリ〜ベルリン優勝.jpg▲1901年のパリ〜ベルリンで優勝したルノー・タイプD
 1903年春のパリ〜マドリード間レースで、ルイにとって忘れられない事故が起こった。すぐ上の兄だったマルセルのクルマが、コーナーを曲がり切れずに溝に落ちてクラッシュしたのである。この事故でマルセルが死んだ。事故を重く見たフランス政府は、以後の都市間レースを禁止してしまう。それがやがて、サーキット・レースの誕生を促す気運になるのだが、前進にはいつも悲しい危険が付きものだったのである。

A06.jpg▲1903年5月に開催されたパリ〜マドリード間レースにマルセル・ルノーはドライバーとして参加(写真)
 パリの近郊にあるビランクールは、ルノーの工場が立ち並ぶ巨大な自動車工業地域として知られるが、その広さは約80万平方mもある。これは、ルイ・ルノーが、第1次世界大戦で儲けた金をつぎこんで買い足していった、いわば、ルノー帝国であった。


 自動車レースで勇名と信用を博したルノーは、1910年代までにビランクール工場では5000人に及ぶスタッフが働くほどの、フランス第一の自動車メーカーにのし上がった。


 1914年、第1次世界大戦が起こるとルノーの工場は兵器工場と化し、砲弾を作り、モーリス・ファルマン航空機のエンジンを製造し、大戦末期には、ルノーNC、FT17という軽戦車を開発した。


 戦功の故であろう、大戦後のパリを走るルノーのタクシーには、ラジエターのカップの上に、軽戦車のミニチュアがカー・マスコットとして飾られた。


 ルノーの本拠地ビランクールは、ほぼ1世紀前までは野原だった。中産階級のパリジャンが所有していた別荘が散在するだけの、森と牧草地とセーヌの河岸に野鳥が遊ぶ閑静な土地だった。


「日曜日ともなると、イル・セグァン島と呼ばれるセーヌ河の中洲には若者たちがピクニックに訪れ、島の居酒屋で遊んでいたものだったが、いまでは一列に並んだスズカケの並木とわずかな緑を残した公園があるだけで、すべてルノーの工場とビルディングに占領されてしまった」


 1939年の記録には、ルノー自動車工業が生産した年間乗用車台数は4万5388台であり、シトロエンの6万1460台、プジョーの5万2796台に次いで第3位だったが、営業車は実に1万5613台で、シトロエンやビベルリエを抜き去ったと書かれている。

Medium-10902-RenaultDauphine.jpg▲ルノー・ドーフィン 1956年に4CVに替わるRRモデルとしてデビュー 1958年のモンテカルロ・ラリーで優勝している
 獄中で死んだルイに、追い打ちをかけるように、フランス解放後にパリに乗り込んだド・ゴール将軍は、ルノー企業の解体を命じて、国有化(1945年、ルノー公団)を推し進めた。


 ド・ゴール将軍が残したメモワールの中で、ルノーに関して、次のような言葉がある。「ルノー工業の国有化の処置は主義をもって行ったものではない。それは罰だ。国家の処分権と引きかえにした主な結果は、最初にして完璧な工場をフランスに作ることだったのだ」と。


 ルノーは転進し、躍進して今日に至っている。1990年に株式会社になり、96年には民営化。99年には日産自動車とアライアンスを締結、2016年には三菱自動車がこれに加わった。

Medium-10148-RenaultFloride1961atRetromobile2017.jpg▲ルノー・フロリド 1961年にデビュー デザインはイタリアのカロッツェリア「ギア」手がけた エンジンは850〜1100cc 駆動方式はRR コンバーチブルとクーペをラインアップ
 760ccのリアエンジンの4CVは19611年まで続いた。1951年デビューのフリゲートはフロントエンジン、リアドライブの最後のクルマになる。


 1956年、ドーフィン・ゴルディーニが誕生。59年にはフロリドがお目見えする。3年後の1962年になるや、FFの7847ccのR4、つづいて956ccのR8、R8S、R12、そして1970年にはR6と矢継ぎ早に新車が発表される。プラスチック・ジープと呼ばれた「ロデオ」は70年代の話題をさらったし、R5、R5スポーティ、R14、R18、R20、R30と開発はつづいていくのだ。

Small-13569-Renault5Turbo.jpg▲1980年にデビューしたルノー5(サンク)ターボ 1.4リッター直4エンジンをミッドシップに搭載して後輪を駆動 1981年のモンテカルロ・ラリーで優勝するなどスポーツシーンで活躍した
 78年、18TSルノーはヨーロッパ・スタイルの美しいシルエットでファンを喜ばせた。80年代のルノーは5からアルピーヌV6ターボまで、ますます研ぎすまされた姿態を見せるのだった。(了)

まみやたつお/東京外国語大学卒業。1942年、朝日新聞社入社。1980年代に本誌で「栄光へのチャレンジャーたち」を連載。著書は『名車たちの青春群像』(ダイヤモンド社)など多数

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